より良い明日を目指して、より良い最期を夢見て。

映画、書籍、歴史、キャリア、人生そのものについて

良い自己啓発書とは何か

 本屋に行くと毎回新しい自己啓発書が発売されている。それらは目を引くタイトルや表紙をしているが、そのうちどれほどが有用なものなのだろうか。自己啓発書をたくさん読んで、人生わかったつもりになり、結局行動を起こさない人が多いのではないだろうか。

 確かに、自己啓発書を読むのは楽しい。人生にユニークなアイデアをもたらせてくれる。見方を変えるだけで人生の問題を解決してくれることもある。しかし、だからこそ有用な自己啓発書だけを読み、他は読まないよう意識する必要がある。然もなくば、自己啓発書を読んでいる時間の分だけ損をする。

 

 良い自己啓発書は

①著者がなんらかの領域での成功者である

②著者が自らの経験に基づいて著している

という特徴があると考えている。

 ①について、著者が成功者や著名人であることは重要だ。自己啓発書は人生のあるべき姿を説く。そのため大抵の場合、正論であるが退屈で頭に入ってこない。例えば、「朝6時に起きるのは重要だ。私はマイクロソフト創業の頃、、、」と語られれば、「早寝早起き」という学校の先生でも言える内容を詳しく知りたくなる。

 ②について、抽象的な話が多かったり、伝聞が根拠の本は退屈だ。「綺麗事」にしか聞こえない。その時に、具体的な成功例・失敗例があると話そ真剣に聴く気になる。

 

 換言すると良い自己啓発書は、具体性があり、著者に説得力があるもの、となる。少々乱暴だが、これらの極地が古典と考えるとその長命が理解できる。

五里霧中の人生に、如何にして方向性を与えるか

 人生は可能性に満ち溢れている、と人は言う。確かにそうだろう。しかし、可能性があるために苦しいのも人生である。何かを選ぶことは何かを選ばないことである。我々は死ぬまで何かしらの可能性を持っている。故に死ぬまでこの苦しみを抱えるのだろうと考えてきた。しかし今では、その苦しみがかなり和らいでいる。

 

 大学生の時は人生が辛かった。やるべきことが見つからず、若さを浪費していた。「なんでもいいから始めてみればいい。」そのようなアドバイスを受けることも多かったが、納得できなかった。何かを始めたはいいが、本来自分がすべきことではなかったら?北に向かうべきなのに、南に進んでいたら?

 五里霧中の人生で一歩を踏み出すことは本当に難しい。今思うと、そのように考えるのは「本来自分があるべき場所」、(もっと言うと)「自分が100%の実力を発揮し適切に評価される状態」がどこかにあると無条件に信じていたからだろう。そんなものはどこにもないし、誰も用意してくれないのだが。

 ひとことで言えば、暗闇は可能性である。暗闇の中一歩踏み出すことは、自分の背後にある可能性から一歩遠ざかることを意味する。故に怖いのだ。

 

 この恐怖を乗り越えるには、自分の可能性を「自分にとって価値があるもの/ないもの」で分類することが有用である。そして「価値のない可能性」を捨てる、意識を向けないことである。そうすると、自分にとって真に重視すべき可能性は全体からみればほんのわずかだと気がつくだろう。周囲を囲む暗闇の8割は晴れる。そうすると、残った部分が道のように見える。それが人生の方向性である。一歩を踏み出すことにもう躊躇いはない。自分の背後の可能性に意味はないのだから後悔する必要はない。

 

 大抵の人は、老いによって、もしくは責任を背負うことによって上記の問題を解決しているように見える。「俺も若くないから/家族がいるから/サラリーマンだから」できることは限られているというわけだ。最初から可能性がほとんどないと考えれば、なるほど、失う恐怖などどこにもない。しかし少なくとも私は、自分の人生を自分で選びとって行きたいと考える。そうやって、自分の人生に対して誠実でありたい。

 人生を丸太や岩の塊だと考える。うまく削っていけば立派な彫刻になる。雨風によって満遍なく侵食されれば、ただの劣化にしか見えない。可能性をうまく削ることが人生に意味を与えると信じている。